浅羽八幡三社の流鏑馬について | |
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○はじめに 浅羽八幡三社の項目でも記載しましたが、戦前まで行われていた稚児流鏑馬に ついてのお話しをしていきます。 |
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○流鏑馬の概略 「流鏑馬」がいつから始まったのかは分かっていません。飛鳥時代とも奈良時代 とも平安時代のこととも言われています。 流鏑馬は「馬上で的を射る」という武芸であり「騎者三物」の一つですが、五穀 豊穣や戦勝を祈願して神前で奉納したのが神事としての流鏑馬の始まりではないか とされています。 この流鏑馬がもっとも頻繁に行われたのが鎌倉時代、源頼朝の時代。頼朝公が 積極的に流鏑馬を行ったことと、八幡社が全国に勧請されるのにあわせて流鏑馬 文化も広まったと推測されます。(八幡社は清和源氏の氏神) 平成の現在、西では京都の「下賀茂神社」、東は鎌倉の「鶴岡八幡宮」が大規模に 流鏑馬を奉納しています。関西では貴族の「束帯」、関東では武士の「狩装束」と 装束が異なっていますが、馬場を疾走しながら3つの的を打ち抜くというのはどちら も同じでとても勇壮な神事と言えます。 これに対し「稚児流鏑馬」は静的な神事に近くなります。騎乗するのは10歳前後 の稚児のため馬は疾走しませんし、射的もどちらかというと儀礼的なものが多いよう に見受けられます。現在の稚児流鏑馬として有名なのは京都・春日大社における 若宮おん祭りで毎年12月に行われています。 ちなみに「流鏑馬」はもともと「矢馳馬(やばせうま)」「矢伏射馬」だったのが 変わったものと言われていますが、ある文献に「薮早馬(やぶさま)」とも書かれて おり、なんとなく「薮早馬」の方が我々の地区にはピッタリの気がしています。 |
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○八幡三社における流鏑馬神事の始まりについて 八幡三社ではいつ頃から稚児流鏑馬を行っているのでしょうか。実は文献及び古書 には数説あります。その中で「長禄4年(1460年)平民村並びに松原村の庄屋が 鎌倉(鶴岡)八幡宮より移す」というのが最も有力なものとして言われてきました。 平民村の庄屋は藤原氏(後の通称平民氏、改姓し井浪氏)、松原村の庄屋は松下氏で 流鏑馬の一切を両家で主宰してきました。この稚児流鏑馬は太平洋戦争による中断 まで約500年の長きにわたり営々と続けられてきた、というのが概略になります。 (芝八幡神社では神事の際に今でも必ず井浪氏が拝殿に登ることになっています) ところがその後の郷土資料館さん達の多大な研究、調査によって上記の説は証明 するのに少々難しいのではないかという結論に至っています。その理由は @.長禄4年当時は既に鎌倉幕府にそれほどの力がなく、流鏑馬も全盛期を 過ぎ、「鎌倉八幡宮」にそれほどの影響力がない。 A.八幡三社の流鏑馬は「儀礼」としての性格が強い稚児流鏑馬であること から鎌倉よりは京都の影響が色濃い。 の2点です。このことから「鎌倉」より「稚児流鏑馬」が伝わった、と結論付けるには 無理があるのではないかということです。もちろん当初は流鏑馬で後に稚児流鏑馬に 変更されたと考えることもできますが、これを示す証拠や資料は見つかっていません。 では「何時」「何処から」ということになるわけですが、残念ながら現状では確たる 決め手がありません。ただ一つは「流鏑馬の概略」にも触れてある春日大社の春日 若宮おん祭りが参考になるかも知れません。このおん祭りは平安時代から続くお祭り で、競馬や相撲といった奉納神事の中に稚児流鏑馬があります。春日神社といえば 「浅羽八幡三社について」でも記載したとおり、浅羽に古来からあり、なおかつ八幡 神社の前身にあたります。春日神社繋がりで平安の頃から稚児流鏑馬があったと 直結することは短絡過ぎて危険な推測になりますが、影響はこちらからと考えた方が 素直に理解できるでしょう、と郷土資料館の皆さんはお考えのようです。私もそう 思います。 結論からいうと、「長禄4年頃には流鏑馬をやっていた」くらいのことしか分かって いません。浅羽は古来より災害の多い地域でしたので資料の流失や紛失が多く 今後の新発見に期待するほかないようです。 |
王御前神社(松原) 王御前神社馬場跡 |
○稚児流鏑馬の参加序列 10頭で催された稚児流鏑馬ですが、そのうち先の5頭を「的馬(まとうま)」 後ろの5頭を「従陸掃(じゅうろっそう)」と言います。それぞれに役割が決まって いて ・1〜5 番馬 的馬(役馬とも) 流鏑馬神事を行う 黒い紋付、袴、脚絆、手甲、飾り輪 ・6〜10番馬 従陸掃 流鏑馬神事は行わない 輪廻りを行う 派手な振袖、色袴 となっています。輪廻りとは神輿渡御に際し御神体が神輿へ移られる時に 厄除けを行うもので、社殿の周りを馭者(ぎょしゃ)の介添えで廻る神事です。 馬の毛色は以下の通りです。 1番馬 青栗毛 2番馬 紅栗毛 3番馬 黄紙栗毛 4番馬 白栗毛 5番馬 黒栗毛 そしてそれぞれの馬は担当する村が決まっていました。 的馬 1番馬 平民 2番馬 八幡、米丸、持広 年番で替わる 3番馬 梅田、松原、初越、一色 年番で替わる (10年に一度初越は新堀にゆずる) 4番馬 柴 5番馬 3番馬と同様 従陸掃 6番馬 平民 7番馬 八幡、米丸、持広 年番で替わる 8番馬 梅田 ただし文化4年(1807年)以前は平民 9番馬 松原、太郎助、篠ヶ谷、米丸、持広、松下、八幡、松山、梅田 初越、善能寺、一色、西ヶ崎、柴、馬場、石原、小口市場、末永 平民、東山、弥太井、新堀 ただし文化4年(1807年)以前は梅田 10番馬 松原 ※現在の地名 平民村・石原村 = 豊住 八幡村・米丸村 = 浅岡 持広村・松下村・善能寺村・小口市場村 = 浅名 梅田村・松山村・東山村 = 梅山 松原村 = 松原 初越村 = 初越 一色村 = 一色 太郎助村 = 太郎助 柴村・馬場村・末永村・弥太井村 = 浅羽 篠ヶ谷村 = 山の手 西ヶ崎村 = 西ヶ崎 単独の村で出す馬のことを「持切り」、複数の村が年番で出す馬を「廻り馬」と 言います。 文化4年を境に8、9番馬の村が大きく変わっています。実質平民村が一つ馬を 失い、今まで馬に乗ることができなかった12ヶ村が従陸掃、しかも22年に一度 ではあるものの流鏑馬に参加できるようになっています。実はこの文化4年以前より 色々と悶着があってこのような事態になっているわけですが詳しくは図書館で流鏑馬 資料集をお読み下さい。 この9番馬の存在は、今まで流鏑馬神事を見るだけであった12ヶ村からすれば 待ちに待ったものだったのかも知れません。しかし「9番馬」は別の側面を持って いたようです。それは「馬を出す=莫大な費用がかかる」ということです。約10日に 渡る期間中の接待・飲食費用や鞍・鐙の馬具類、そして衣装、・・・ 9番馬は八幡三社の氏子22ヶ村が全て入っています。もちろん「持切り」で馬を 出せるような「裕福な村」は問題無いのですが、ほとんどの村は村全体で資金を掻き 集めてようやく馬を出したようです。事実篠ヶ谷村では近隣の村々からお金を借りて ようやく準備が整ったという話しも残っています。これらのことから9番馬は案外と 「ありがた迷惑」だったのかも知れません。 的馬に名を連ねる村々とその頭数を見ていると、当時の浅羽地区における勢力や 繁栄振りが分かります。 ちなみに現在の地名に直すと 的馬 1番馬 豊住 2番馬 浅岡、浅岡、浅名 年番で替わる 3番馬 梅山、松原、初越、一色 年番で替わる (10年に一度初越は新堀にゆずる) 4番馬 浅羽 5番馬 梅山、松原、初越、一色 年番で替わる 従陸掃 6番馬 豊住 7番馬 浅岡、浅岡、浅名 年番で替わる 8番馬 梅山 9番馬 松原、太郎助、山の手、浅岡、浅名、浅名、浅岡、梅山、梅山 初越、浅名、一色、西ヶ崎、浅羽、浅羽、浅名、浅名、浅羽 豊住、梅山、浅羽、新堀 10番馬 松原 となります。豊住は井浪氏の、そして梅山は松下氏の影響が大きいのか 他地区に比べて多くの馬に乗れる様になっています。 |
梅山(梅田)八幡神社馬場 浅岡(八幡)八幡神社馬場跡 芝(馬場)八幡神社馬場跡 |
○稚児流鏑馬の準備 祭典に先立ち馭者と流鏑馬童子は松原の松下家で御神酒を頂きます。その後 浅羽三社八幡の主神である誉田別命(応神天皇)の母にあたる息長足姫命 (神功皇后)が祀られている王御前神社に馬と王様、関係者が参内し、井浪家が 装束・馬の毛色の点検を行います。問題が無ければ前川ないし同笠海岸で 水垢離を取り、戻ってようやく神社で御祓いがなされます。 これが終わると揃って梅山八幡神社へ向かいます。時既に夕闇迫る頃だった そうで、出迎えに梅山の屋台と若衆が加わり、「さぁ、明日からお祭りだ」という 何とも言えない雰囲気になったそうです。 なお、この王御前神社での神事ではビンザサラ(編木)も一緒に持参されます。 ビンザサラは竹の平らな板を紐でくくったもので井浪家、浅岡、芝両八幡で 各30枚、馬と合わせて100頭の馬をあらわすものだと言われています。 このビンザサラは王御前神社も含めて都合4日間に渡って繰り広げられる稚児 流鏑馬と共に回っていきます。 かつての王御前神社は松の古木の中に建っており、清浄な泉があり、池まで あったそうです。 ○馬場削り 古来旧暦の八月(今の九月中旬)に行われていた流鏑馬は、時期的に雑草が最も 伸びている時期に重なります。そこで王御前神社に参集する前日にそれぞれの氏子が 地元の馬場の草刈、整地を行います。この行事を馬場削りと言いました。 ○的 的は15cm程度の板を5枚並べて正方形としたものを1.5m程度の青竹の先端に 挟んで麻紐でくくったものです。的は全部で6本あり、 1番的 天下泰平 (平民村) 2番的 国土安全 (浅岡八幡合せ的) 3番的 五穀成就 (梅山八幡合せ的) 4番的 天地陰陽 (芝八幡合せ的) 5番的 諸病悉除 6番的 悪魔降伏退散 という意味を持ちます。またそれぞれの神社で1番的と組み合わせる的が決まって おり、都合5本となってそれぞれの的馬と神社を結びつけるようになっています。 平成の現在、3番的の「五穀成就」は梅山八幡神社の梅山、松原、初越各地区の 万灯に、「天地陰陽」は芝八幡神社の馬場地区の万灯に引用されています。 的とは少し関係ありませんが、芝八幡神社の山の手地区の万灯にある「天長地久」 は流鏑馬に先立って「五穀豊穣」と「万民息災」を祈念し行われる「天長地久の儀」 からきており、流鏑馬を意識したものとなっています。 ○弓の射場 今ではその面影を探すことすら難しいのですが、各神社敷地内には弓の射場が あったそうです。そこでお祭りの時に弓を射る方々がいたという話しが地元の古老から 伝わっています。 芝八幡神社では忠魂碑の北側にあったと言われています。 なお通称「バタバタ」という弓取りの儀式もあったそうですが、こちらに関しては ほとんど資料が残っていません。 |
梅山む組万灯「五穀」 馬場車万灯「天地陰陽」 山栄車万灯「天長地久」 |
○王様の存在 王様は神輿渡御の際に神様が留守となった神社で留守居をする役割を担っており 各神社でその選定に差があります。梅山(梅田)では5軒の世襲制となっており、持ち 回りで男子がその役を担います。 浅羽(馬場・芝)では馬場地区に在住の男子となっておりその選考は多少緩くなって います。また平成16年(2006年)から例祭式典終了後に馬場車は王様を屋台に 載せて還る「王様還し」という儀式を追加して貰っています。 浅岡では現在王様を立てていないそうです。 王様は祭典の前日から別火の食事となり身を清めます。そして当日は白装束に 烏帽子という出で立ちで役を務めます。 いずれの地区も昨今の少子化の影響を受け選考にたいへん苦労しています。 男子の多い少ないは過去にもあったらしく、戦前でも「俺は2回王様やったぞ」という 地元古老の話しがありますのでなかなか継続性が難しいものですが神輿渡御の 際は境内で最も権威のある役ですのでしっかりと受け継いでいきたいものです。 |
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○他地区の流鏑馬 八幡三社以外の神社でも流鏑馬を行っていた地区があります。長溝・桑原神社と 湊・江川神社です。 桑原神社は江戸時代に朱印地を貰う関係から八幡社を合祀しています。それが 理由というわけではないのでしょうが、流鏑馬を行っていました。もともと中村と 長溝村は原野谷川の西側にあり、鎌田にある全久院を檀家寺としています。そのため 八幡三社との関わりは薄いのでしょうが、やはり影響を受けたようです。もっとも 長溝村の場合、稚児流鏑馬ではなく大人の流鏑馬だったようで、江戸時代の厳しい 武器所有に対する取締りを避けるため、色々な工夫をしていたと聞きます。 江川神社でも八幡三社と同様に七十五膳を供え馬を走らせたという記述が残って います。 ちなみに諸井・王子神社は往古の山名荘の関係から熊野系に属し八幡社とは一線を 画していたようです。現在諸井と浅羽の境に小さな堀がありますが、そこが荘の境界 になります。 更に同笠、大野、中新田地区は城飼郡に属していた関係で、やはり八幡三社の 氏子ではありませんでした。 |
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○稚児流鏑馬 ・馬飛び 10時頃に各々出立し、拝殿に入った王様、乗り子共に浄めの盃をあげます。 そして昼食をとった後に「馬場見せ」を行います。馬場見せとは馬場と人混みに 馬を慣らせるという意味があり、三匹、三匹、四匹ずつを3回行います。これが 競馬の様に見えることから「馬飛び」として世間に知れ渡った行事のことです。 その昔は馭者が手綱を離したということですからそれは勇壮だったことでしょう。 この「馬飛び」は王御前と浅岡が「東より西へ」、梅山が「西から東へ」、芝が 「北より南へ」疾走しました。 ・輪廻り 14時頃から式典が始まります。すると的馬は禰宜(宮司)宅へ戻り、従陸掃は 式典の進み具合を宮司と確認しながら輪廻りを行います。5頭で5廻りします。 なお浅岡では1番馬に王様が、2番馬に禰宜が騎乗して宮入り、芝では 1番馬に王様が、4番馬に大禰宜が騎乗しての宮入りとなります。 この間、的馬の乗り子は禰宜宅で馬主や馭者を接待しています。ただこの接待は 「八百長喧嘩」が仕込まれており宮元以外の方々が「酒がマズイわ!」「こんなものが 食えるか!」などとはやし立てます。勿論接待側も「この味が分からぬのか!愚か 者がっ!!」「普段からロクなものを食べておらぬからな!!」と海原雄山同士の 喧嘩みたいなことをやっています。勿論知らない方々はハラハラドキドキですが。 挙句に料理を取り替える事となり、しかし接待側も取り替えるフリをしてまた同じ ものを持ってくる。また喧嘩のやり直し・・・という事を繰り返しているうちに笑いが 起こり、にこやかに喧嘩をして時間を過ごしたそうです。 この接待で出される料理の一つに「牛の舌」というものがあります。これは餅を 牛の舌状にしたもので神饌の一つです。 ・神輿供奉 従陸掃は禰宜宅へ戻って的馬と入れ替わります。的馬は神輿渡御の列に従って 神輿とその列を守ります。還御に際しては「弦打ち」という持っている弓の弦を三回 空撃つ儀式を行います。 ・弓取り 神輿還御が終了すると同時に「弓取り」というこれまた「八百長喧嘩」が始まります。 従陸掃が1番馬の弓を強奪して禰宜宅に逃げ込み、それを奪還するというストーリー なのですが、これがまた滅茶苦茶で、馬の馭者が弓を強奪するはずが、ヘタを すると野次馬の地元青年だったりします。 先ずは1番馬と2番、或いは3番まで含めた馭者が取り返すため示談にやって きます。勿論決裂。すると裸馬を先頭に馭者、乗り子、親類縁者までが押しかけ ます。馬は縁側に登ろうとする、中からは雨戸を叩いて追い返す、雨戸を蹴破る 床は踏み抜く、庭の草木は踏み荒らす、中からは弓をチラチラ見せて煽る・・・ そのうち「まぁまぁ」と示談が始まり手打ちとなります。とにもかくにも宴の席が 設けられ、従陸掃の馭者、乗り子、父兄の順で並ぶと的馬の乗り子と宮本青年の 接待を受けます。勿論ここでも「海原雄山喧嘩」があります・・・ その喧嘩と接待し直しを3回くらいやったところでようやく弓を返します。その際 には弓を的馬・従陸掃の馭者同士が持ち合って「ヨイショ!ヨイショ!」の掛け声で 引き渡します。 この一種の騒乱は時期や神社によってその内容や規模が異なる様ですが 理由が「従陸掃の接待料理には牛の舌が無い」ということらしいのです。 神饌ですから出るか出ないかで大きな差があるのでしょうが、何もそこまで・・・ 本当のところは「流鏑馬童子」であるにも関わらず、実際の流鏑馬をすることが できない従陸掃の意趣返し、といったところなのでしょうが、それとプラスして 折角選ばれた「流鏑馬」の役を楽しもうという心意気も見て取れます。 因みに牛の舌は最後にはちゃんと宴に出てきます。 ・的割 ようやく本番です。1番馬の弓を井浪氏が持ち、全ての位置を定めます。 的もその際に等間隔で建てられます。弓矢の丈を定規替わりにして、だいたい 4〜5間程度の間隔で配置し、的持ちという役の方が持っています。 そこへ各馬が並び、弓を射るかと思いきや、射ません。弓をつがえた状態の ところへ的持ちの方が的を当てて「射た」こととするそうです。 個人的な見解ですが、往時はきちんと射たのだと思います。ですが観衆が いるところで弓を射たことも触ったこともない子供が「矢を射る」という行為は かなり危険です。安全面を考慮したのではないでしょうか。 1番から5番馬まで射的が終わると、それぞれの的は観衆が取り合い 奪い合いとなります。僅かな破片でも「魔除け」になるとのことで、拾った 断片は神棚に納めたそうです。 ・役馬 最後にもう一度的馬が馬場を5回走ります。それぞれを組み合わせて 一頭あたり二回走るわけですが3番馬のみ3回と決まっています。 なお1回目は弓を担ぎますが、2回目以降は弓を降ろします。 この役馬ですが、それぞれの回数や駿走するタイミングは文献によって 差異が認められるため、もう少し検証が必要です。 以上の神事・行事を初日の王御前神社から梅山、浅岡、芝まで日送りで 4日間行っていたのです。当時は周辺の祭典が終了した最後だったという こともあり、最終日の芝八幡神社は大勢の観客で賑わったそうですが 雨が降ることが多く「馬場の泣き爺」(雨で難儀して爺様が泣く+婆と爺の掛詞) と呼ばれたとのことです。 |
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○戦争、そして現在の稚児流鏑馬 昭和に入り戦争の影が流鏑馬にも忍び寄ります。第二次大戦が激化し日々の糧食 にも事欠く日々が訪れると祭典の準備にも影響を及ぼし始めました。地元の古老の 話しでは戦中の流鏑馬は既に往時の隆盛はなく、見物客の足も途絶え、それは寂しい ものだったと言います。そして町内の馬が軍馬として徴用されると、いよいよ流鏑馬 の開催が不可能となり、昭和18年(1943年)の流鏑馬を最後に中断となります。 浅羽一色自治会の保管文書には昭和19年9月20日の日付で「浅羽三社流鏑馬 祭休止取極書写」が残されており、そこには大体以下のことが書かれています。 「戦争が激化し流鏑馬を行うことは困難である。各社氏子総代・部落代表が豊住 公会堂に会し今後の話し合いを行った。」 ・昭和19年より休止 ・休止期間は「当分」とする ・再開の際には昭和19年度の馬番・乗り子で行う 昭和19年度の馬番は当該資料に詳しく載っています。 これに更に追い討ちを掛けたのが昭和19年12月7日の「東南海地震」です。 軍の統制化に置かれていた時代ですので詳細は残っていないのですが、町内では 倒壊家屋639戸、死者21人という大惨事でした。この地震で最も大きな被害を 受けた神社の一つが浅岡(八幡)八幡神社で、拝殿が倒壊し御神輿・四神などの 神具すべて大破してしまいました。 このように中断へと追い込まれた流鏑馬ですが、戦争が終わり流鏑馬がいつ復活 するか、復活するかと思い描いた方も多かったとは思います。ところが戦後復興期・ 高度成長期と足早に時代が過ぎ、気がつくと曳き物中心のお祭りが主流となっていま した。もちろん氏子の中には「せめて我が家だけでも」と馬を借り衣装を借りて神輿 渡御にお供させた方もあったようです。しかし当然ながら莫大な費用がかかるため その数はごく僅かです。 昭和47年(1972年)より芝八幡神社では神輿渡御に乗り子をお供させるという ことになり、これは現在も続いています。 そして平成2年(1990年)梅山八幡神社で稚児流鏑馬が復活します。梅山地区 のみではありますが、地区をあげて毎年流鏑馬を行う、ということで復活と言える のではないでしょうか。中止から約半世紀が経とうとしていました。 その後平成5年(1993年)には和鞍及び馬具一色と流鏑馬稚児衣装を新調し 更に馬も複数になるなど本格的な復活を目指しています。この年は浅岡八幡神社 でも祭青年の尽力により稚児流鏑馬を行っています。 梅山八幡神社の稚児流鏑馬は現在も継続して行われていますので、是非一度は 足を運んで頂けたらと思います。 |
昭和40年台後半の稚児流鏑馬・芝八幡神社 (河村衣料店さん所蔵) |
○さいごに この流鏑馬神事は「浅羽の馬飛び」と呼ばれ、当時の近隣町村にその名を知られた 催しでした。今でも地元の古老に話を聞けば「人出が多かった」「出店や地元の煮炊 きが楽しみだった」という賑やかな在りし日を思い出させる様な会話が聞かれます。 もちろんこうした神事を体験された方達の思いを考えれば、復活させていきたいと 思うこともあります。しかし少子化や休日の形態、馬の確保や現在主流となっている 曳き物主体の祭典に対してどの様に絡めていくのかなど問題は山積しています。 かつて4日間に渡り繰り広げられてきた稚児流鏑馬は、その全容を復活させること は困難かもしれません。ですが何かしらの形で現在の祭典に絡ませ、その痕跡を残し ていくことは決して難しいことではないと思います。 平成21年 7月31日 記 平成24年11月26日 追記 ○参考文献 ☆印:浅羽図書館で閲覧できます |
☆流鏑馬資料集 | 浅羽町教育委員会 | |
☆浅羽町史(通史編) | 浅羽町 | |
☆浅羽町史(民俗編) | 浅羽町 | |
☆浅羽風土記 | 原田 和 氏著 | |
☆郷土雑筆 白羽草 | 原田 和 氏著 | |
☆磐田郡史 | ||
・地元の古老の方々のお話し・・・・・ | いろいろとありがとうございます。 | |