浅羽八幡三社について
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○はじめに

  浅羽には3つの八幡神社が現存します。梅山、浅岡、浅羽(芝)八幡神社と通称
 されているこれら三社は、戦前まで浅羽地区のほとんどの村々が参加した稚児流鏑馬
 によって結びついていました。この八幡神社についてお話ししていきます。
  なお、以下の神社名表記では梅山を「梅田」、浅岡を「八幡」、浅羽を「馬場」と
 します。また明治以前の表記として八幡神社ではなく「八幡宮」とします。


 
○浅羽の成り立ちと鎮守

  その昔、浅羽は藤原氏が創設した勧学院という、荒っぽく説明すると有力氏族の
 学校の様な施設にお米などを納付する荘園として整備されました。平安時代のことと
 考えられており、1305年頃の「摂録渡荘目録」という荘園の目録には他の院領の
 約4倍という規模を有する最大の荘園として記載されています。当然支配者は藤原氏
 であり、氏神である春日社を荘園鎮守として勧請した様です。
  現在春日神社は梅田八幡神社に仲良く並んで鎮座しています。更には馬場の八幡神
 社にも社は現存していませんが春日社が相殿されています。1802年(享和2年)
 までは社が存在したことが判明しているようですが、今となっては境内のどこに鎮座
 していたかを示すものはありません。この2つの春日神社については「何時」浅羽に
 勧請されたのかは分かっていませんが、荘園の整備とほぼ同時ではなかったのではな
 いでしょうか。


 
○八幡宮の勧請時期について

  八幡宮は九州・大分県の宇佐神宮を総本社としています。その後京都に建立された
 岩清水八幡宮で源義家が元服し八幡太郎義家と称したことが、後の鎌倉幕府を起こし
 た源頼朝、室町幕府を起こした足利尊氏の祖先ということを加味し、鎌倉から室町
 時代にかけて武家を中心に八幡信仰が広がっていく一因となります。今流に言えば
 流行したというところでしょうか。
  浅羽に八幡宮の気配が漂ってくるのは鎌倉時代からです。当時の浅羽に関する資料
 は非常に少ないため、正確に八幡宮が勧請された年月は特定されていません。ですが
 上記の様に「源氏」「足利氏」が浅羽に進出してきた頃が勧請された時期として
 考えられています。
  まず文献を見てみましょう。

   @ 707年(慶雲 4年)説  梅田村 横須賀藩への提出文書より
   A1404年(応永11年)説  井浪家古文書 棟札の写し
   B1460年(長禄 4年)説  井浪家古文書 棟札の写し

 の3説があります。@に関しては宇佐神宮が725年、岩清水八幡宮が859年に
 建立されていることから少々無理がありそうです。A、Bは共に三宮のうちどの八幡
 宮を勧請したのかが不明です。Bについては同時に流鏑馬神事も移すとある様です。
  では棟札(建替えの際にその旨を記載した札)はどうでしょうか。

   @梅田 1580年(天正8年)葺き替え
   A八幡 1466年(寛正7年)再建
   B馬場 1711年(宝永8年)御遷宮

 これらが現存する最古の棟札の様です。八幡宮は「式年遷宮」あるいは「式年造替」
 と呼ばれる基本的に20年に一度社を造り替えるという制度があります。@からBは
 まさにこれにあたるものと思われます。いずれにしても1460年以前に勧請された
 ことは間違いなさそうです。

  そこで本項冒頭にも書いた様に、八幡信仰に縁のある人が浅羽を含めた「ここいら
 へん」を治めた時期を検証してみます。

  @1190年(治承4年)安田義定 遠江守護(足利氏配下)
  A1336年(建武3年・延元元年)今川範国 遠江守護(足利氏一門)
  B1351年(観応2年・正平6年)佐々木貞氏 浅羽荘地頭職(足利氏配下)
  C1352年(観応3年・正平7年)今川範氏・範国 遠江守護(足利氏一門)
  D1399年(応永6年)今御所 浅羽荘地頭職(足利義満の娘)

 @は「浅羽荘司」宗信が活躍した頃で、足利氏の配下である安田氏とひと悶着おこし
 た頃です。安田氏はすぐに守護職を罷免されているのと、まだ鎌倉幕府黎明期でそう
 簡単に勧請などできる状況ではなかったと考えられます。Aの今川氏は北条氏に守護
 職を早々に移されているのでそういう状況ではなかったでしょう。B、Cはまさに
 南北朝の動乱期真っ只中。混迷の時代の中で一筋の光明を求めて勧請というのも理解
 できない話ではありませんが、どうでしょうか。
  Dは室町時代の全盛期であり、3代将軍義満の娘が浅羽の地頭職。さらに1395
 年(応永2年)には九州探題まで登りつめた今川貞世(了俊)が堀越に居を構えて
 います。直接の関係はないにしても今川氏は文武両道の才人。謀により失脚したとは
 いえ山城、遠江、駿河守護職を歴任し、九州にも縁の深い人物ですから、当時の浅羽
 を含む山名郡は八幡宮や京都文化に縁のある人たちが支配していたと言えます。この
 時期は井浪家古文書のAにぴったり符号しますので、私個人としては1404年勧請
 が最も有力なのではないかと思っています。勧請は三宮まとめてか数年の違いしか
 なかったのではないでしょうか。


  ただお隣袋井市国本鴨山にある八幡神社の社記には1290年(正応3年)岩清水
 八幡宮より勧請とあることから、まだまだ調査・研究は続ける必要があるでしょう。
  さらに勧請先が分からないということです。流鏑馬は「鎌倉より」と伝承にある
 ものの、社の元宮が鎌倉八幡宮であるということにはなりません。上記の通り京都の
 岩清水八幡宮の縁も深そうですし、九州の宇佐神宮のセンも捨てきれません。この点
 もまた今後も調べていく価値がありそうです。

  また三宮以外にも小さな八幡宮はあり、弥太井村には若宮八幡宮が現存し、長溝村
 には「八幡社 除地の高2石」と遠江国風土記伝にあります。長溝村の八幡宮は後に
 桑原神社と合祀されています。(※2、※3)これらの他にもまだ八幡宮はあった
 かもしれません。



  
  梅山(梅田)八幡神社

  
  浅岡(八幡)八幡神社

  
  浅羽(馬場)八幡神社








   ※2.「長溝村八幡は誤記?」記載変更追加
   ※3.「若宮八幡宮」追記
○三宮の規模

  八幡宮にはその時々の権力者から社領が認められていました。以下が徳川幕府より
 安堵された所領(朱印地)です。

   梅田八幡 70石 1603年(慶長8年)
   八幡八幡 35石 1603年(慶長8年)
   馬場八幡 15石 1649年(慶安2年)

 このうち梅田に関しては春日社と八幡宮をあわせての石高であり、仮に半分と考えて
 も35石が相当しています。ところがなぜか馬場だけが15石と少な目です。当時
 まだ春日社が並存していたにも関わらず、です。
  氏子の人数や村の石高は梅田、八幡と遜色ないかあるいは多いのでこれらは関係が
 ないと思われます。そうなると気になるのが朱印地が安堵された年が他の2宮とは
 違うということです。実は浅羽の寺社の朱印地・黒印地(大名から安堵された所領)
 は分かっているもののほとんどが「慶長6〜9年」の間に安堵されているのです。
  ちなみに10石以上の寺社は

   1.梅田八幡宮      朱印地70石 慶長8年
   2.八幡八幡宮      朱印地35石 慶長8年
   3.篠ヶ谷山 岩松寺   朱印地24石 不明
   4.萬古山  円明寺   朱印地18石 慶長8年
   5.馬場八幡宮      朱印地15石 慶安2年
   6.龍富山  松秀寺   朱印地12石 慶長8年

 となっており梅田、八幡八幡両宮の厚遇ぶりが明らかです。岩松寺は神亀年間
 (724〜729年)に行基によって開かれた古刹。円明寺は1539年(天文
 8年)、松秀寺は永正3年(1506年)の開創となっています。寺との単純な
 比較は無意味かもしれませんが、他の有力な寺社より40年以上も遅れ、他の八幡
 宮の半分以下の所領しかなかった馬場八幡宮。何かモメ事でもあったのか、それとも
 「もしかする」と馬場だけ勧請時期が遅かったなど何かしらのハンデがあったのかも
 知れません。


  
 
○三宮の建ち方

  浅羽の三宮はいずれも異なる方向を向いて建っています。

    梅田八幡宮 東南東(巽)
    八幡八幡宮 南南西
    馬場八幡宮 南

 八幡と馬場は南向きと考えても良さそうですが、梅田のみ東向きです。東はもちろん
 日の昇る方角で実際にはやや南向きの「巽」という方角になります。南は「天子は南
 面する」という中国の故事にならったものです。東も南も社の向く方角としては正し
 いものです。ですが三宮のうち梅田のみが東向きとなった理由は分かっていません。
 春日社が東向きだったから、というのが実情かもしれませんが、同様に春日社のあっ
 た馬場は南向きです。残念ながら当時の資料はありませんので、あれやこれやと想像
 してみるしか手はなさそうです。


  
 
○明治以降の三社

  明治に入り神仏分離が唱えられ、浅羽では1870年(明治3年)から翌年に
 かけて「神仏判然令」に伴う神社の改変が行われたようです。この時に行われた
 主な内容は「国教は神道」を合言葉に、

   ・神仏習合の呼び名の禁止(大明神、大菩薩、権現、牛頭天王など)
   ・社、宮、権現を神社に名称統一
   ・仏像を御神体にする、仏具を神社に置くことの禁止
   ・などなど

 と神社から仏教色を排除することが目的でした。明治以前はぶっちゃけて言えば「神
 も仏も同じ」で「神宮寺」なんて当たり前の話でした。その様な中でも八幡宮はもと
 もと神仏習合思想が強く、祭神は「八幡大菩薩」=「八幡神」であり神道と仏教が融
 合していました。八幡神は応神天皇であり皇祖神でもあります。「仏教と融合した皇
 祖神」が八幡信仰の大きな特徴なのですが、「仏教の保護者」として寺の守護神たる
 一面は削られてしまいました。
  浅羽の八幡宮については、

   ・八幡宮から八幡神社に名称変更
   ・本地仏である阿弥陀如来の除去(※1)
   ・祭神の変更 旧来は八幡大菩薩
          明治以降は
            梅田:帯仲日子命、誉田別命、息長足姫命
            八幡:息長足姫命、誉田和気命、玉依比賣命
            馬場:息長帯比賣命、誉田和気命、姫大神

           ※誉田別(和気)命   15代応神天皇
            帯仲日子命      14代仲哀天皇(応神天皇の父)
            息長足姫(帯比賣)命 神功皇后(仲哀天王の后)
            玉依比賣命(姫大神) 初代神武天皇の母

 という変更がなされています。神仏判然令に対しての賛否や功罪についてここで言う
 つもりはありませんが、約150年前まではこの様であったということを覚えていて
 も良いのではないかと思います。


  その後、三社は1871年(明治4年)の「近代社格制度」で

    梅田八幡神社 1872年(明治5年) 郷社
    八幡八幡神社 1917年(大正6年) 郷社
    馬場八幡神社 1917年(大正6年) 郷社

 となります。梅田に対して八幡と馬場は遅れること45年後。この差が何を意味する
 のか不明ですが、梅田が三社の筆頭格とはいえ郷社指定はあまりにも早すぎます。
 これは当時の梅田八幡神社神主・浅羽義樹氏が維新政府に相当な尽力を要したと推測
 されます。
  この社格ですが第二次大戦後、GHQの指示のもと1946年(昭和21年)に
 「神道指令」が発せられ廃止されています。この際に神社の「指定記念」石碑が削ら
 れたり、或いは刻印文字が埋め込まれたりされた様です。


  そして1907年(明治40年)に
神饌幣帛料供進指定神社となります。これは
 三社同時でした。平たく言えば「例祭の時に神具や金銭等をしかるべき団体から頂戴
 できる神社」ということです。





































   ※1.「行方不明」記載変更
        梅田八幡神社の阿弥陀如来は現存して
        いますが、秘仏となっており開帳などは
        一切されていません。























      近代社格制度(昭和21年廃止)

        伊勢神宮
          |
          |
         官社
             官幣社(二十二社)
             国幣社(一宮など)
          |
          |
         諸社 
             府・県社
             郷社
             村社
             無格社 

   ※4.「梅田八幡の郷社指定理由」記載変更
  
○さいごに

  ここに書いたものは私個人が趣味で調べて書き記したものです。私は歴史家でも
 郷土史家でもありませんので、これらの内容に対して確固たる保証をすることは
 できませんが、自分達がお祭りの度に集う神社の由来が少しでも分かっていれば
 また別の楽しみ方が生まれるのではないかと思います。


                         平成19年12月24日 記



○参考文献 
☆印:浅羽図書館で閲覧できます
 
   
 ☆流鏑馬資料集 浅羽町教育委員会
 ☆社寺関係調査報告書 浅羽町教育委員会
 ☆浅羽町史(通史編) 浅羽町
 ☆浅羽町史(民俗編) 浅羽町
 ☆広報あさば 浅羽町
 ☆遠江國風土記傳 歴史図書社
 ☆浅羽の今昔 柴田 静夫 氏著
 ☆白羽草 原田 和 氏著
 ☆浅羽風土記 原田 和 氏著
 ☆静岡県博物館協会 研究紀要 第17号 静岡県博物館協会    ※2.追加
 ・神社建築 山川出版社
 ・地元の古老の方々のお話し・・・・・ いろいろとありがとうございます。